いよいよ、手術

 朝、6時半頃に目が覚めた。ベッドでもさもさしていたら、7時半頃かな?先生が来て、手術前のエコーをさっとしていった。先生、朝早くから大変だな~。その日は絶食なので、顔を洗って、コンタクトもしないでゆっくり過ごす。看護師さんが、体調確認や点滴をしていく。

 9時、看護師さんが迎えにきた。歩いて手術室に向かう途中、サイレンが鳴った。「コードブル、コードブルー」あ、テレビで見るアレだ!医師や看護師が何人か走ってくるのが見えた。「大変!頑張って!」っと思いながら、手術室に入った。この時点でも、不思議と不安や怖さはなかった。目は無事に覚めちゃうんだろうな…と思っていた。

 手術台にも自分で移動。眼鏡もないからよく見えないけど、先生と思しき人が見えた。手術台に寝ると、「これから点滴で麻酔入れますね~。ゆっくり深呼吸してください。数数えますよ~。1,2,3・・・」覚えているのは、ここまで。

 ガラガラガラ…と台車を引くような音と、「あーるさーん、目が覚めましたか?手術終わりましたよ」という声が聞こえた。あ、手術終わったんだ、と思ったら、「1、2、3!」ベッドに移されたらしい。「センチネルリンパ節生検の結果、リンパ節への転移はなかったので、郭清はなしで終わりましたよ」。ほっとした。夕方には、自分でトイレに行けます、とも言われた。その時には、酸素マスクもすでになかった。時計をみたら、10時20分だった。1時間ちょっとで手術終わるんだ、早いな…と思った。記憶が定かじゃないけど、その後、眠った気がする。

 夕方、目を覚ました。看護師さんに痛みはあるか聞かれ、切った部分が少し痛い、と答え、薬をもらって飲んだ。歩いてトイレに行くように言われ、ひとりで、ゆっくりとトイレへ。点滴しているから針の部分が痛いのと、少し吐き気がした。ベッドに戻っても、体を起こしていると吐き気がしてきた。それを看護師さんに伝えて、横になっていた。8時頃か?先生が確認に来た。「あぁ、起きてらっしゃいますね」。先生からも直接、センチネルリンパ節生検の結果の説明があった。その場で、切ったほうの腕を上げて確認。「問題なく上がりますね」。あとで聞いたら、ほかの病院だと、そうはいかない場合が多いらしい。

 目が醒めた。そして、がんは取り切れた。少し痛いし、少し吐き気もあるし、冷や汗が出ているけど、見えるがんは切除できたことで、気持ちはすっきりした。でも、これで明日退院して大丈夫なの?と、ちょっと心配だった。

 その夜は、少し痛いし、寝返りが打てないし、腕に刺してる点滴の針も気になるし、布団の下に敷いてあるビニール?がガサガサするし、近くの処置室?からガシャンとかジャージャーという音が響いてきて、眠れなかった。今晩入眠剤くれればいいのに…と思いながら、一晩悶絶した。

いよいよ、入院

 入院は2泊3日、先生からは、事務職ならすぐに職場復帰も可能と言われていたけれど、体力に自信がないので、職場復帰は2日後にしようと思った。しかし、上司がもう1日は休めと(笑)。そりゃ、びっくりするよね。私もびっくりしたもの。先生からは、手術の翌日には電車で帰れる、と言われていたけれど、新幹線や飛行機はいいとして、それまで電車で立ったままの移動は辛いと思ったので、病院の近くにホテルを取ることにした。

 自分が入院するのは、初めてだった。人の気配がすると眠れないタチだし、手術の場所も場所だし、胸を切るとなると泣けてくるかも…と思い、あらかじめ個室を申し込んでいたので、病室ではゆったりと過ごせた。夜は入浴して、翌日の手術に備える。寝る前だったか、看護師さんに「腋の毛は剃ってますか?」と聞かれて焦った(笑)。腋毛はあまりないほうなので、気にかけていなかった…。「センチネルリンパ節生検」で腋の下を切るので、毛を剃らなきゃいけないんだって。「大丈夫そうだけど、念のため」と、看護師さんが剃ってくれました。ちょっと恥ずかしかった。

 手術は翌朝、9時開始。「9時になったら歩いて手術室に入ります」。へぇ~、歩くんだ。緊張で眠れない場合は飲んでください、と、入眠剤をもらった。不思議なほど、不安も緊張もなかったが、念のため、薬を飲んでベッドに入った。明日には傷だらけに、ちっちゃくなっちゃうんだね、今までありがとう、そしてごめんね、と、右胸に手を当てながら眠りについた。

手術までの経過

 手術までの3週間は、お盆が入ったこともあって、バタバタと過ぎていった。実家に帰省したが、病気のことは父には報告しなかった。子供の頃からのあれこれで、父との間には確執があったが、母が亡くなってからはそれも薄まってきていて…でも、言えなかった。母ががんで亡くなり、娘もがん、となったら、絶対泣かれるだろうし、下手したら心臓止まっちゃうよ、と思った。それに、言ったところで、状況が変わるわけでもないし、手術してからじゃないと病状も不確定だし。無駄に心配させることはない、と思った。

 また、お盆直前に急に姉から電話が来て、8年振りに帰省していった。姉には話そうかだいぶ待ったが、言わないことにした。だって、当てにしてないし(笑)。お盆も正月も、母の命日にさえ、電話の一つも寄こさない。他人より遠いよ。ただ、「病院で治療しなきゃいけないから、保証人よろしく。何かあったら連絡行くから」とだけは話した。

 仕事もそこそこ忙しく、重い案件が続いていたが、淡々と残業、休日出勤をこなしていた。なんでこのタイミングで、この案件が来るんだろう…と思いつつ。そして、手でぐっと掴めるところにがんがあるのも、なんとも言えない怖さがあった。これが、がん。その頃は、夜になるとよく泣いていた。煙草は吸わない、酒もそんなに飲まず、月に数回、二日酔いしない程度に飲む程度。暴食・偏食でもない。なのになぜ、なぜよりによっておっぱいなの?って。友人の中には、「突起物で良かったじゃん」っていう人もいた。独身で、胸を失う辛さ・・・わかってはもらえないのかも。

 ちょうど周囲は結婚や出産のおめでたラッシュで、A病院の対応などもあり、すごく惨めな気持ちになっていた。ただでさえ、親戚からは「結婚しないなんて、頭おかしい」と非国民扱いされ、職場でも結婚しないことを非難されたり、馬鹿にされることがあって、苦しくなっていた。手術は全身麻酔で行うが、10万分の1ぐらいの確率で、事故で無くなる人がいるらしい。私は本気で、目が覚めなければいいのに、と思った。生きたいのに生きられない人もいる中で、お叱りを受けるかもしれない。でも、私には私の事情があるのだ。

 それでも、無事に麻酔から覚めたら、こうして掴めるがんが綺麗にとり除けたら…1から人生をやり直そう、と思った。夢は、諦めてきた。大学受験直前で、親が急に「女は勉強するな」と言い出し、進学も就職もできない状況になった。それでも、勉強してそこそこ高倍率の試験をパスして就職して、仕事しながら、時間はかかったけど大学を卒業した。なんだかんだ言いつつ、無年金の親が心配で、地元に残っていた。でも、生き残れたら、残りの人生はやりたかったことをしてもいいかな、って。

転院後の診察

 X病院での診察は午後だったので、午前中の飛行機で移動した。熱気と観光客であふれる祭の中を潜り抜けて空港に移動したけれど、祭の賑わいが、なんだか遠い世界に感じられた。映画館でスクリーンを見ているような、ガラス越しに違う世界を見ているような、そんな感じだった。

 飛行機も、乗る度にワクワクしていたけれど、さすがにその時は気分が重かった。飛行機が飛び立つときに、整備士さんたちが手を振ってくれるのを見るのが好きで、いつも窓にかじりついて見ている。晴れていても、雨が降っていても、「行ってらっしゃい」と言うように手を振ってくれる姿を見ると、何かいいことがあるように思えるのだ。その時は、整備士さんたちが手を振る姿を見ていたら、不覚にも涙がぽろぽろ出てきた。二日後に戻ってくる時、私はどんな気持ちで帰ってくるんだろう。無事に帰ってこれるのかな。来年の桜は見れるんだろうか。来年の祭は見れるんだろうか。そんなことを思っていた。たまたま隣が空席だったので、気が緩んだ。周囲に人がいる中で泣くなんて、初めてだった。

 コインロッカーに荷物を預け、病院へ。血液検査、マンモグラフィーMRIを撮ってから診察。緊張して、変な汗が出ていた。

 A病院からの検査結果も踏まえて、診察と今後の方針を決めていく。MRIの結果は、「典型的な粘液がんの画像ですね。画像上は散らばりもないし、腫瘍の大きさからも、温存手術できます。」とのことだった。

 A病院で「肝転移の疑い」と言われていたCT画像だが、X病院の先生はその画像を見て、「明らかに腫瘍ではないですね。血管腫の画像です。転移ではありません。安心してください。現時点ではステージ1なので、手術可能です。」と言ってくれた。ほっとして、緊張が緩んだ。「A病院では、大きく形が崩れるって言われたんですが…」、「内側に切り込みを入れて形を整えるので、大きく形が崩れるということはありません。ボリュームが少なるなる、という感じです」。温存手術で行けるのか、とほっとすると同時に、愕然とした。同じ画像を見て、「がんの転移かも」という医者と、「明らかに転移ではない」という医者がいる。ステージ1とステージ4、まずは手術と手術は形が崩れるから半年間の化学療法…命を左右する、方向性の違い。私は、X病院のこの先生は信用できると思っていたので、A病院で言われたことは、さっぱり忘れようと思った。

 手術日は約三週間後の日付で確定した。X病院では、温存手術の場合は2泊3日、手術の翌日には退院だそう。え?大丈夫なの?と思ったが、ドレーンを入れないので、手術当日の夜からトイレにも自力で行けるし(なのでカテーテルもなし)、翌日退院で大丈夫、とのことだった。手術後約1か月で病理検査の結果が出るので、治療方法の決定はその後だが、一般的には、温存手術の場合は手術後に25回の放射線照射を行い、その後はルミナルAならホルモン療法、ルミナルBなら化学療法をした後にホルモン療法を行うとのこと。A病院からの資料には、最初のクリニックでの生検結果の詳細データも入っていて、生検ではKi67は25%なので、ルミナルAかBかは微妙なところだったが、「ルミナルBであっても、化学療法は希望しない」と先生に伝えた。先生からは理由を聞かれ、一通り説明したら、最終的には患者さんが決めること、と納得してくれた。

 また、放射線治療は地元の病院でもできるか聞いたら、「希望する病院に紹介状を出して、放射線だけ地元で行うこともできる」とのことで、これもほっとした。もちろん、A病院以外でだけど…。

 最後に、看護師さんから手術、入院の説明をしてもらった。術前の通院はあとは必要ない、付き添いは不要(来てもいい)、保証人の連絡先が必要、手術前日は昼前に入院して…などなど。・・・親族が来ないと説明もできない、というA病院とは大違いだな、と思いながら聞いていた。救われた気持ちだった。

 というわけで、翌日は1日フリーになったので、気晴らしに水族館に行った。ほっとした気持ちで、ペンギンやチンアナゴを眺めた。いいな~、私も日がな一日ゆらゆらしたい~と思った。そう思えるぐらい、少し元気になった。さらにその翌日、飛行機で帰宅。だいぶ気持ちも落ち着き、「来年の桜の時期には、治療も一通り終わっているのかな」なんて考えていたら、今度はほっとして、涙が出そうになった。

転院

 首都圏にあるX病院の先生が、HPで公開で質問を受け付け、回答していた。それを見ると、ガイドラインの標準治療では何をするかが論理的で明快に説明されていて納得のいくものだった。さらに、他病院でがんと診断された人の転院も積極的に受け入れていたので、私も思い切って連絡してみた。

 すぐに、「A病院の医師の方針には疑問がある。当病院で受け入れ可能です」という回答をくれた。詳しくは検査結果を見てからだが、まずは診察日の予約と手術日の仮押さえをして、転院手続きを進めてくれることとなった。

 A病院で転院の手続き。看護師さんに転院したい旨を伝えると、医師との面会はなしで、手続きは済んだ。「セカンド・オピニオンのためですか?」と聞かれ、「いえ、転院です」。迷いは全くなかった。それまでの検査結果と画像CDを受け取った。書類をたくさんもらうイメージだったが、今どきは画像はCDなのね、と思った。

 X病院での診察は、それから1週間ほど後で、ちょうど夏祭りの時期だった。にもかかわらず、運よく飛行機が取れた。診察は1日だけだったが、念のため、2泊3日で予定を組んだ。

知人の情報

 これからどうしようか・・・と思っていた。転院するにも、県内じゃ一番大きい病院を拒否して、受け入れてくれる病院あるんだろうか、とか、離れた場所だとどうやって手術や治療を受ければいいんだろう、とか、ぐるぐるしていた。そんな時、昼休みに、ロビーで偶然知人に遭遇した。定年退職後も時々職場に顔を出してくれていて、「しばらく飲んでないな。近々飲もう」と言ってくれたので、「実は、乳がんだと判明して、A病院で詳しく検査中なんです」と打ち明けた。彼には医者の友人がいて、自分や奥さんが病気になった時、その友人が的確なアドバイスをくれたそうで、私のがんについても、現時点の検査結果を知らせて、情報を聞いてくれることになった。

 翌日には、もうアドバイスを回答してくれた。内容は、その大きさで転移がなければ、通常はまず手術、温存手術なら手術後に放射線治療をする、A病院の評判は良くないので、そこよりは隣県の国立医大付属病院を勧める、粘液がんはA病院でも症例が多くないせいかA病院の先生の方針は少しおかしい、転院を勧める、とのことだった。

 このアドバイスを聞いて、私が感じていた違和感は不安は間違っていない、と確信できた。そうだよね、A病院の方針は、ガイドラインから外れてるよね。「後でもめたら困る」なんて言い放つ病院で治療は受けない、と決めた。がん保険から診断給付金が少し出るし、さすがにがんなら、正々堂々と仕事休んでいいよね、と思い、首都圏も含めて、広く病院の情報を検索することにした。

総合病院での受診②

 水曜日も午前中休暇を取って、A病院に。この日は、前の日とは違う先生だった。ちょっと、冷たいような、機械のような先生で、ちょっと引いた。

 最初の病院では、マンモグラフィには何も映らなかったけど、この病院のマンモグラフィには、うっすらと映っているそう。何が違うんだろう。機械の精度?胸の挟み方?

 CTは、リンパ節には転移が疑われるものは映ってない、でも、肝臓に影があり、「転移かもしれない」と言われた。肝臓が転移でなければステージ1、転移ならステージ4で、手術はできず、抗がん剤などで延命を図ることとなる、とのこと。「今まで肝臓で何か言われたことはありますか?」と聞かれ、以前受けた人間ドックで「血管腫疑い」と言われたこと、行きつけの肝臓専門医でエコーを取ったら「脂肪に見える」と言われたことを話した。はっきりさせるため、翌週、消化器内科の予約を入れられた。また診察して、検査の予約して・・・検査だけでいつまでかかるんだろう、と不安になった。

 私も乳がんの標準治療のことは調べていた。その当時、ガイドラインでは、腫瘍が3㎝未満なら温存手術で切除し、化学療法はその後に実施、3㎝以上の場合で腫瘍を小さくして温存手術を目指すなら術前化学療法、となっていた。なので、私は、肝臓が転移でなければ、早く手術をしたいと先生に言った。しかし、先生は「6か月の術前化学療法をやってもらいます」という。私は、母がすい臓がんで亡くなり、抗がん剤で苦しむのを見ていたので、絶対に抗がん剤はやりたくなかった。たとえ、死ぬとしても。それに、仕事を休んでアパートにずっと一人でいて、髪が抜け落ちていくのに、精神的に耐えられないと思った。そして…正直、生きることに疲れ果ててもいて、がんなら、このまま静かに人生を終えたい、と思っていた。なので、「手術を先にしてください。抗がん剤はやりたくありません」と伝えた。先生は、「温存はできるが、大きく形が崩れる。やりたい、やりたくないにかかわらず、抗がん剤はやってもらいます」がいうので、抗がん剤をやりたくない理由も伝えた。不安が大きくなる。まだがんのタイプもわかっていないのに、「とにかく術前化学療法をやる」のはなぜ?「形が崩れる」って、手術に自信がないの?患者がいやがる治療も無理やりやるの?「インフォームドコンセント」じゃないの?

 「抗がん剤はいやです」と抵抗を続け、取り合えず、手術予定ということで、話を進めることになった。

 「子どもを持つことは希望しますか?卵子や受精卵の凍結保存もできますが。」と聞かれた。グサッときた。「いえ、特に希望はしません。凍結してまでは…」と答えた。私は、もともと積極的に結婚したいとか子供を持ちたいと思っていなかった、いや、思えなかったので、独身できたわけだけれど…それでも、喉元を抉られたようだった。もう、私には「結婚して子供を産む」という未来はないんだな、と。

 乳腺外科は、それでおしまい。次は、歯科に回された。一通りみて、手術前に開業医でクリーニングを受けるよう指示された。手術の際に、口の中の菌から肺炎になるのを防ぐためらしい。行きつけの歯医者あてに、紹介状を出してもらう。行きつけの歯医者にも病気のことバレるのか…。

 最後に看護師から、今後の説明があった。手術する場合、4日後に退院してもらう、その後は自宅療養、ドレーンを入れるので腕がしばらく上がらなくなる、尿カテーテルも入れる、喫煙者は手術は受けられない、喫煙者は禁煙が必要、口からチューブを入れると痰が出やすくなるので、痰を出す練習をしておくこと、などなど…。

 最後の最後に、次回は入院や手術の説明をするので、必ず家族を連れてくるようにと指示された。私は独身だし、近くに親もいないので、「独身ですし、母は亡くなり、80歳近い父が車で3時間ぐらいのところに離れて住んでいるので、家族を連れてくることはできません。友人だとだめですか?」と聞いた。看護師の答えは、「それでも、とにかく家族を連れてきてください。でないと、説明も手術もできません。言った・言わないで、後でもめると困るので」。衝撃だった。独身者は、治療も受けられないの?

 なんとか気持ちを落ち着けて、職場へ向かった。これから検査で休まなければならないし、報告しなければならなかった。直属の上司、課長に報告した後、近い同僚にも、乳がんだと判明したこと、詳しいことはまだわからないが、これから精密検査のために何日か休む必要があること…。上司達は、「体を最優先して」と言ってくれた。何日かは急ぎの仕事も入っていたなかったので、病院の状況を見て、今後の相談をしていくことにした。

 その後のことは、よく覚えていない。ただ、取り乱すでもなく、淡々と仕事をこなした。たまたま仕事がらみの飲み会もあって、いつも通り笑ってもいた。努めて平常であることを装った。私がへこんだ姿を見せれば、周りに気を遣わせるとも思ったし。

 そして、家に帰って、大泣きした。嗚咽って、こういうことか…と思った。独身って、過酷だな、と…。子供を持ちたいか、とか、家族を連れてこい、とか、その日の病院でのやりとりは、がんになったこと以上に、つらかった。

 そして、こちらの都合は関係なく、検査がどんどん追加されていくこと、意向に反して術前化学療法をされそうになったこと、家族を連れてこなければ説明も手術もできない、と言われたことで、なんだか、自分が一人の人間では、なくなった気がした。「〇〇〇〇」という名前を持った、これまで40年近く生きてきた、一人の人間ではなく、ベルトコンベアーに乗せられて仕訳けられる荷物になったような気がした。人間ではなく、「患者」になったのだ、と思った。患者としても、欠陥品のような。

 本当に、神様は私が嫌いなんだろうな、と思った。

 家族連れてこない説明さえできないっていうし、元々そんなに生きる気力はなかったし、ましてや「病気と闘うぞ!」なんて思えなかったし、末期だとしたら、なるべく自然な形で死んでいきたいと思っていたので、「このまま病院行くのやめようか…」と、本気で考えた。もう疲れたな…って。